給湯室の流しに、「使ったカップはすぐに洗いましょう」という張り紙があります。しばらくすると、その下に「必ず洗ってください」という張り紙が増え、やがて赤い字の「洗っていないカップは処分します」が加わります。それでも、流しのカップは減りません。
言っていることは正しいのに、人は動かない。職場の変革も、構図は同じです。新しい手順を守ってほしい、ナレッジを共有してほしい、生成AIを試してほしい。正論を重ねるほど、相手は身構えていきます。
仕掛学は、こうした場面に、説得とは別の道を示します。組織の変え方は、方針や号令で人を動かすことだけではありません。仕掛学とは何か、「仕掛け」と呼べるものの3つの要件は何か、職場の変革で使うならどう設計し、どこに気をつけるか。順を追って見ていきます。
結論:仕掛学は、望ましい行動を相手に求めるのではなく、「つい、やってみたくなる」きっかけを置いて、行動の選択肢を増やす考え方です。仕掛けといえるのは、誰も不利益を被らず(公平性)、思わず行動したくなり(誘引性)、仕掛ける側と仕掛けられる側の目的が違う(目的の二重性)ものです。だましたり、強制したりするものは仕掛けではありません。
仕掛学とは
仕掛学とは、人の行動を変えるきっかけになる「仕掛け」を集め、その共通点を整理した考え方です。大阪大学大学院経済学研究科で教えながら、街や店先の仕掛けを数多く集めてきた松村真宏氏が提唱し、著書『仕掛学:人を動かすアイデアのつくり方』(東洋経済新報社、2016年)にまとめられています。
よく知られた例に、男性用の小便器の内側に小さな的を描くと、多くの人がそこを狙うようになり、周りが汚れにくくなるというものがあります。「きれいに使いましょう」と書くのではなく、狙いたくなる的を置くだけで、行動が変わります。
もう一つ、駅の階段をピアノの鍵盤のように塗り、踏むと音が鳴るようにしたところ、隣のエスカレーターより階段を使う人が増えたという取り組みも、よく紹介されます。「健康のために階段を使いましょう」という呼びかけとは、まったく違う道筋で人を動かしています。
仕掛けの3つの要件
仕掛けの3つの要件は、公平性、誘引性、目的の二重性です。松村氏は、仕掛けをこの3つをすべて満たすものとして定義しています。英語の頭文字から、FAD要件とも呼ばれます。

| 要件 | 意味 | 給湯室の例で考えると |
|---|---|---|
| 公平性(Fairness) | 誰も不利益を被らない。だましたり、損をさせたりしない | カップを洗わない人を罰したり、さらし者にしたりしない |
| 誘引性(Attractiveness) | 思わず行動したくなる。ただし、行動するかどうかは本人が選べる | 洗うことが、ちょっと楽しい、気持ちいいと感じられる |
| 目的の二重性(Duality of purpose) | 仕掛ける側の目的と、仕掛けられる側の動機が違う | 仕掛ける側は流しをきれいに保ちたい。洗う人は、ただ面白いから洗う |
3つのうち、仕掛けの肝になるのが目的の二重性です。小便器の的の例でいえば、仕掛ける側の目的は「トイレを汚さないこと」ですが、使う人は「的を狙いたい」から狙っています。使う人に、清潔に使う理由を理解してもらう必要はありません。
正論と仕掛けは、何が違うのか
正論は相手に望ましい行動を求め、仕掛けは行動の選択肢を一つ増やして、動くかどうかを相手に選ばせます。二つのやり方を、次の図で対比します。

正論で動かそうとするとき、話し手は相手に望ましい行動を求めます。相手は、求められて動くか、動かないかを決めることになります。求められるほど、「やらされている」感覚が強くなり、反発が生まれることもあります。
仕掛けは、行動を求めません。行動の選択肢を一つ増やし、それが面白そう、やってみたいと感じられるようにします。動くかどうかは相手が選び、選んだ結果として、仕掛ける側の目的も果たされます。
説得に頼らずに変革への抵抗と向き合う考え方は、変革への抵抗はなぜ起きる?社内の「抵抗勢力」とタイプ別の向き合い方の記事にも出てきます。仕掛学は、その「説得しない」向き合い方を、具体的な形にする道具の一つです。チェンジマネジメントの打ち手の中では、方針や号令を補う、行動の側からの手だてといえます。
仕掛けではないもの
罰や強制、だましのように、3つの要件のどれかを外れたものは、仕掛けではありません。仕掛学の考え方を職場で使うとき、いちばん気をつけたいのは、こうしたものを「仕掛け」と呼んでしまうことです。次の表の例と説明は、3つの要件に照らして当ブログがまとめました。
| 要件を外れる例 | 外れている要件 | なぜ仕掛けではないのか |
|---|---|---|
| ツールを使わない人の名前を、全員が見る画面に表示する | 公平性 | 使わない人が恥をかくという不利益を被る |
| 新しい手順を使わないと、申請が受け付けられないようにする | 誘引性 | 選ぶ余地がなく、強制になっている |
| アンケートに答えると抽選に参加できると言い、実際は抽選がない | 公平性 | 相手をだましている |
松村氏の要件そのものではなく、当ブログからの提案です。職場で仕掛けを使うときは、仕掛ける側の目的を聞かれたら、そのまま答えられる状態にしておきます。同じ職場で働き続ける相手に、目的を隠した仕掛けを置くと、気づかれたときに信頼を損ねるおそれがあるからです。目的を知られたうえでも面白いと感じてもらえるかどうかが、職場の仕掛けの試金石になります。
職場で仕掛けを設計する4つのステップ
職場で仕掛けを設計するときは、変えたい行動を一つに絞り、その場を観察してから「つい、やりたくなる」きっかけを考え、3つの要件で確かめて小さく試します。
- 変えたい行動を一つに絞る:「ナレッジ共有を進める」ではなく、「解決した問い合わせを、その日のうちに共有フォルダに1件置く」のように、目に見える行動にします。
- 今の行動と、その場の様子を観察する:その行動が起きる場所、時間、使う道具、そこにいる人を見ます。張り紙を足す前に、なぜ今の行動になっているのかを確かめます。
- 「つい、やりたくなる」きっかけを考える:集めたくなる、比べたくなる、続きを見たくなる、試したくなるなど、人が思わず手を出す動機を手がかりにします。
- 3つの要件で確かめてから、小さく試す:公平性、誘引性、目的の二重性を満たしているかを確かめ、一つの部署や場所で試します。効果がなければ、次の案に替えます。
例:仕掛けの設計シート
どちらの例も、罰や比較ではなく、「続きを見たい」「試してもらいたい」という気持ちを入口にしています。上の手順で作る設計シートの記入例を、2つ載せます。
例A:問い合わせの解決例が、共有されない
まずは、解決した問い合わせの記録が共有フォルダにたまらない場面の記入例です。
| 項目 | 記入例 |
|---|---|
| 変えたい行動 | 解決した問い合わせを、その日のうちに共有フォルダに1件置く |
| 今の行動と様子 | 解決すると次の対応に移り、記録は後回しになる。共有フォルダは誰も見ていないと思われている |
| 仕掛け | チームの部屋に「今週の解決」ボードを置き、共有された件数だけ、ボードの絵が少しずつ完成していくようにする |
| 公平性 | 共有しない人の名前は出さない。誰がいくつ共有したかも表示しない |
| 誘引性 | 絵の続きが見たくなる。共有するかどうかは本人が決める |
| 目的の二重性 | 仕掛ける側は解決例をためたい。共有する人は、絵を完成させたい |
例B:生成AIのよい使い方が、広がらない
こちらは、うまくいった生成AIの指示文をチームに広めたい場面を想定しています。
| 項目 | 記入例 |
|---|---|
| 変えたい行動 | うまくいった指示文(プロンプト)を、チームのチャットに1つ投稿する |
| 今の行動と様子 | うまくいっても自分の中で終わる。投稿するほどのものではないと思われている |
| 仕掛け | 毎週金曜に「今週のひとこと指示文」を一つだけ選び、翌週のチームの定例で、その指示文を全員で試してみる |
| 公平性 | 選ばれなかった投稿を評価しない。投稿しないことで不利益はない |
| 誘引性 | 自分の指示文をみんなが試す場面を見てみたくなる |
| 目的の二重性 | 仕掛ける側は使い方を広めたい。投稿する人は、自分の工夫を試してもらいたい |
設計シートを書き始めたころは、よくできた仕掛けなら一度で人が動くはずだと思っていました。いまは、小さく試して反応を見、替えていく前提で組むものだと考えています。
AI活用のポイント:仕掛けの案を数多く出させる
生成AIには仕掛けの案を10個出させ、3つの要件に問題がありそうな案をAI自身に申告させてから、絞り込みます。仕掛けは、最初の一案で当たることはまれです。条件を書くときは、会社名や人の名前を「A社」「Bさん」のような仮の呼び方にしておきます。
職場で、次の行動を増やすための「仕掛け」を考えています。仕掛けとは、公平性(誰も不利益を被らない)、誘引性(思わず行動したくなり、するかどうかは本人が選べる)、目的の二重性(仕掛ける側の目的と、行動する人の動機が違う)の3つを満たすものです。変えたい行動:[例 解決した問い合わせを、その日のうちに共有フォルダに1件置く]その場の様子:[例 チームは8人。全員が同じ部屋で働いている。共有フォルダは誰も見ていないと思われている]仕掛けの案を10個出してください。それぞれについて、3つの要件のどれかに問題がありそうなら、その理由も書いてください。罰、強制、だまし、人前での比較を使う案は出さないでください。
出てきた10個の案のうち、要件に問題があると書かれたものは外します。残った中から一つだけを選び、4つのステップの最後にあたる「小さく試す」に回します。
まとめ
- 仕掛学は、望ましい行動を求めるのではなく、思わずやってみたくなるきっかけを置く考え方です
- 仕掛けといえるのは、公平性、誘引性、目的の二重性の3つを満たすものです
- 罰、強制、だましは仕掛けではありません。仕掛ける側の目的は、知られても困らない状態にしておきます
- 変えたい行動を一つに絞り、その場を観察し、小さく試して替えていきます
赤い字の張り紙をもう一枚足す前に、職場に貼ってある張り紙を一枚思い浮かべてください。その張り紙を外すとしたら、代わりに何を置けば人がつい動きたくなるか。最初の一歩は、その問いを考えることです。
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参照情報
- 松村真宏『仕掛学:人を動かすアイデアのつくり方』東洋経済新報社、2016年




